作中の語句解説
-
浮月楼 初出第一章
静岡駅付近にある、旧徳川慶喜邸の跡地に建てられた料亭。徳川慶喜は大政奉還後の謹慎処分が解除された明治2(1869)年10月に紺屋町の元代官屋敷に移住し、明治21(1888)年3月に(翌年開通の東海道線による騒音を嫌って)同市内の西草深町へ転居した。その後、明治24(1891)年5月、旧徳川慶喜邸にて料亭「浮月亭」が開業。翌明治25(1892)年1月に建物が火災で焼失。同年6月に「浮月楼」として再開した。
-
講道館 初出第一章
嘉納治五郎が天神真楊流と起倒流の柔術を学んだ後、明治15(1882)年に創始した柔道の道場。嘉納治五郎は柔術の中にある原理に着目し、主とするところは「術」ではなく、自己完成を目指す「道」であるとして、自身の流派を「柔道(正式名称:日本伝講道館柔道)」と称し、その道を講ずる所という意味で「講道館」と名づけた。
-
奇捷丸 初出第一章
幕府所有の蒸気船の一つ。慶応3(1867)年10月、貸下げに出願した嘉納次郎作は長鯨丸・奇捷丸・順動丸・太平丸などを幕府より託され、洋式船による江戸―神戸・大坂間の定期航路を開いた。日本海運史上初の定期汽船と言われている。
-
育英義塾 初出第一章
嘉納治五郎が通った芝烏森の寄宿学校。東京へ引っ越した嘉納治五郎は、明治4(1871)年に深川の成達書塾で漢学と書道を学び、明治5(1872)年に神田の三叉学舎で英書を学んだ後、明治6(1873)年に育英義塾で英語、ドイツ語、数学を学んだ。その後、官立外国語学校を経て東京大学へ進学した。
-
本嘉納の酒蔵 初出第一章
嘉納治五郎の親戚にあたる本家の酒蔵。現在の菊正宗酒造。当主は代々、嘉納治郎右衛門を名乗った。嘉納治五郎の家系は曽祖父・治作郎の代に本嘉納家から派生し、「浜東嘉納家」と言われている。
-
柔術 初出第一章
日本古来の武術の一つ。中国の兵書『三略』の一節にある「柔能制剛」(柔よく剛を制す)に由来する。
-
天神真楊流 初出第一章
幕末期に楊心流(秋山楊心流)と真之神道流の技法を合わせて創られた柔術の流派。開祖・磯又右衛門正足。嘉納治五郎が福田八之助の下で初めて修行した柔術で、平服組討技として当身技や関節技等の危険な技が多く、「形」中心の稽古であった。近世中期以降「形」を中心とする武術が華法化する(形式に流れて華美となる)中で「形」稽古でも気を臍下に納め、真剣勝負の心構えで活物の稽古をすれば、実戦でも無我無心の境で技が出せるとされた。
-
起倒流 初出第一章
嘉納治五郎が天神真楊流の免許を得た後、飯久保恒年の下で修行した柔術。戦時の鎧組討技として投技主体の「形」であり、修行の早い時期から静貌静気や神気不動の心構えが求められた。同時に稽古においては自分の欲に打ち勝つ克己や仁義礼智が求められ、近世後期には術を通して公明正大の道を得る目的で柔道の名称を用いる一派も出現する等、精神面が重視された。
-
万金膏 初出第一章
正式名:浅井万金膏。打ち身、捻挫、肩こり、神経痛などに効く膏薬。嘉納治五郎が入門した当時の天神真楊流の稽古着は、下穿きは股までしかなく、上着は広袖だったため、稽古のたびに肘や脛を擦りむいてしまい、万金膏が手放せなかった。この万金膏をいつもベタ貼りしていた嘉納治五郎は大学の寄宿舎の友人からいつも冷やかされていた。
-
第五高等中学校 初出第一章
現在の熊本大学。略称は「五高」。中学校令により全国5か所に設置された高等中学校の一つ。明治20(1887)年に創設され、明治27(1894)年の高等学校令により第五高等学校へ改称。帝国大学へ進学するための予備教育機関として嘉納治五郎、夏目漱石、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)らが教育に携わった。
-
嘉納治五郎の銅像初出第二章
嘉納治五郎の長年の功労を称えるため、東京高等師範学校を含む後身校の同窓会組織「茗渓会」や教職員らが「嘉納先生教育功労記念会」を発足し、嘉納治五郎の喜寿を祝う記念像の製作を朝倉文夫に依頼。昭和11(1936)年11月28日に東京文理科大学本館前(東京高等師範学校旧本館前)に最初の銅像が設置された。その後、この銅像は昭和16(1941)年9月1日施行の金属類回収令(「国家総動員法」に基づく法令)によって第二次世界大戦中に供出され、行方不明となった。戦後、多くの茗渓会員から銅像の再建を望む声が上がり、嘉納治五郎の没後20年目の昭和33(1958)年11月14日に、かつて銅像が置かれていた敷地(後身の東京教育大学)内にある占春園に再建された。更に2年後の昭和35(1960)年10月29日には嘉納治五郎の生誕100年を記念して、講道館本館前にも設置された。
-
占春園 初出第二章
筑波大学東京キャンパス内にある池泉回遊式庭園。教育の森公園に隣接。現在は筑波大学附属小学校の自然観察園として理科教育の場になっているが、一般にも開放されている。江戸時代初期に守山藩主・松平家の屋敷に作庭され、往時は江戸三名園(※)と称されたという大名庭園の遺構。昭和33(1958)年11月、嘉納治五郎の没後20年目に最初の嘉納治五郎像と同じ石膏型から銅像が再建された(国内2体目・現存1体目)。
※青山の池田邸、溜池の黒田邸、守山藩松平邸の占春園。
-
高等師範学校 初出第二章
現在の筑波大学。当時の中等学校の教員養成機関。明治35(1902)年、広島高等師範学校設立に伴い、東京高等師範学校に改称。嘉納治五郎が3期約25年にわたって校長を務めた。略称は「高師」。
-
灘校 初出第二章
嘉納治五郎が顧問となり、本嘉納家(菊正宗酒造)の当主・嘉納治郎右衛門、白嘉納家(白鶴酒造)の当主・嘉納治兵衛、山邑家(櫻正宗)の当主・山邑太左衛門の出資により、昭和2(1927)年に創立した私立学校。国内屈指の中高一貫校として知られ、嘉納治五郎が提唱した「精力善用」「自他共栄」が校是に採用されている。
-
天神山緑地初出第二章
嘉納治五郎の別荘跡地に作られた緑地公園(我孫子市管理)。
-
朝倉彫塑館 初出第二章
東京都台東区が管理している、彫塑家・朝倉文夫の作品を収蔵・展示している美術館(旧朝倉文夫邸)。明治40(1907)年、この地に朝倉文夫がアトリエ兼住居を構え、昭和10(1935)年に現在の建物を建築。朝倉の存命時には朝倉彫塑塾と命名された教場としても使われた。
-
当身技 初出第二章
日本の古武術等における打撃技(突く、殴る、打つ、蹴る等)の総称。
-
曖依村荘 初出第二章
東京都北区にある飛鳥山公園に隣接する渋沢栄一の別荘。
-
三略 初出第二章
上略・中略・下略の三巻からなる、老子の思想を基調に書かれたと言われる中国古代の兵法の書。
-
永昌寺 初出第二章
東京都台東区東上野(旧称・下谷区下谷北稲荷町)にある浄土宗の寺院。明治15(1882)年、嘉納治五郎は嘱託講師として学習院で働き始め、翌月に永昌寺の書院二間と付属室を借りて転居した。書院を書斎、付属室に書生を置き、もう一間の書院に畳を敷いて稽古を行った。これが今日、世界各国に普及し、国際的な広がりを持つ講道館柔道の発祥とされている。道場となった書院の広さは12畳、初年の門弟は9人だった。同年夏に当時の住職、朝舜法の協力を得て、玄関脇の空地に12畳のバラック建て道場を新築し、翌年2月に南神保町へ転居するまで講道館の道場として使用された。当時の建物は大正12(1923)年の関東大震災で焼失。境内の「講道館柔道発祥之地」と刻まれた記念碑は、昭和43(1968)年10月、嘉納治五郎没後30周年を記念し、講道館が建立した。
-
東京文理科大学 初出第二章
昭和4(1929)年、東京高等師範学校の専攻科を改組して発足した官立大学。嘉納治五郎が臨時教育会議の委員として作成に参画した大学令が大正7(1918)年に公布され、帝国大学以外の大学設立が認められるようになり、高師で大学昇格運動が勃発。嘉納治五郎は師範大学構想を持ちながらも、大学令が職業専門教育を法令上の目的に掲げていないため、高師の大学昇格が困難であると判断し、大学の名に固執せずに専攻科の拡張や研究機関の設置等で実質的決着を図った。その後、大正8(1919)年に東京高師の教職員、学生、同窓会組織の茗渓会による「三角同盟」が結成され、昇格運動が激化。嘉納治五郎はこれまでの方針を撤回して昇格運動に合流し、文部大臣との会見で昇格の意向を取り付けさせた後、責任を取る形で校長を辞職した。(※)
※嘉納治五郎が高師の大学昇格運動に取り組んだことは政府に反旗を翻したことになるため。
-
サンボ 初出第二章
ロシアの国技として知られる格闘技。日露戦争で孤児となったワシリー・オシェプコフが東京の神学校在学中に講道館で柔道を習い、帰国後にロシア国内で柔道を普及させ、その技術体系の一部がサンボに組み込まれた。ワシリーは「ロシア柔道の祖」と呼ばれ、サンボ創始者の一人と言われている。
-
錦城出版社 初出第三章
増進堂の二代目社長・岡本政治が社長を兼務した大阪の出版社。神田区神保町に東京営業所、麹町区永田町に東京編輯部を設置。編輯部のトップは大坪草二郎。昭和17(1942)年9月に富田常雄著「姿三四郎」を出版。昭和19(1944)年3月に増進堂に吸収された。
-
海軍省 初出第三章
かつて存在した日本の中央官庁の一つで日本海軍の軍政を担当した。明治5(1872)年2月28日に陸軍省とともに太政官の一省として設置され、その長として初代海軍卿に勝海舟が就任。明治18(1885)年12月22日の内閣制発足に伴い、内閣の一省となり、初代海軍大臣に西郷従道が就任。終戦後の昭和20(1945)年11月30日勅令第680号「第二復員省官制」で廃止された。
-
大東亜戦争 初出第三章
昭和16(1941)年12月8日、日本がアメリカ・イギリスへ宣戦布告した際に、昭和12(1937)年より継続していた支那事変(日中戦争)を含む大戦として当時の東条内閣が閣議で決めた呼称(日本側の呼称)。戦後は連合国側の呼称である「太平洋戦争」に表現が統一され、現在の日本政府公式文書では使用されていない。
-
警視庁武術大会 初出第三章
明治18(1885)年10月7日、警察・消防殉職者を慰霊するための弥生神社(警視庁招魂社)が東京府本郷区(現・東京都文京区)に創建され、同年11月8日、第一回奉納武術大会(種目は剣術と柔術)が開催された。同年12月に三島通庸が警視総監に就任すると、警察官の士気高揚と武術の奨励、振興のため、この武術大会が頻繁に開催されるようになり、「弥生祭武術大会」あるいは「警視庁武術大会」として全国から多数の剣術家や柔術家が参加する大会となった。
-
戸塚派揚心流 初出第三章
肥前長崎の医師・三浦楊心を開祖とする柔術の流派。楊心流とも揚心流とも表記され、秋山四郎兵衛を流祖とする楊心流<秋山楊心流>と区別するため、楊心古流とも。中興の祖と言われる江上武経の下に多くの門人が集まり、その門人だった戸塚秀澄から皆伝を受けた息子の戸塚彦助が講武所(※幕府の武術訓練機関)で柔術を教授し、その名を轟かせたことから戸塚派揚心流と呼ばれた。当時の柔術の最大勢力。
-
姿三四郎 初出第三章
富田常次郎の息子で小説家の富田常雄の出世作。講道館四天王の一人・西郷四郎をモデルにした(と思われる)主人公の活躍を描く柔道物語。昭和17(1942)年9月、錦城出版社から「姿三四郎」巻雲の章~碧落の章の4章分が出版され、昭和18(1943)年3月25日に映画公開(黒澤明の初監督作品)。昭和19(1944)年3月、増進堂から「姿三四郎 続篇」すぱあらの章~一空の章の4章分が出版された。
-
精力善用 初出第三章
「精力最善活用」を縮めた言葉で、精力とは精神の力と身体の力=心身の力を指し、それらを最も有効に使用することが柔道であると嘉納治五郎は唱えた。「柔道の根本義は精力の最善活用である。言い換えれば、善を目的として精力を最有効に働かせることである。」とし、「団体生活または社会生活の存続発展を助けるものが善で、これを妨げるものが悪である。」と説明している。
-
自他共栄 初出第三章
「相助相譲・自他共栄」 を縮めた言葉。嘉納治五郎は「人間は社会生活を営んで初めて本当の幸福が得られるのであるから誰もが社会生活を辞することが出来ぬ。また社会生活を営みながら精力を最善に活用しようと思えば、相助け相譲り自他共栄するということが必要になってくる。」と説き、精力善用の目的を自他共栄のためとした。
-
瑞邦館 初出第四章
第五高等中学校(現・熊本大学)内に建てられた百畳敷きの柔道場。美しい国の館という意味。
-
ヨーロッパ視察 初出第四章
明治21(1888)年11月5日、華族を重視する三浦梧楼が学習院の第4代院長に就任し、次第に嘉納治五郎と教育方針で対立。明治22(1889)年8月、嘉納治五郎は宮内庁御用掛を兼務、後に学習院教頭職を解任され、ヨーロッパの教育制度を研究するための視察の代表者に任命された。この欧州視察に伴い、嘉納治五郎は南神保町に設立した英語学校の弘文館を閉鎖し、講道館の管理を弟子の西郷四郎、岩波静弥、本田増次郎に委託した。16か月に及ぶ欧州視察の足跡は以下の通り。1889/9/13 ル・カレドニアンに乗船。1889/10/15 マルセイユに到着。1889/10/28 パリに到着し、滞留。1889/12/19 パリを出発し、ブリュッセルを通過。1889/12/31 ベルリンに到着し、滞留。1890年 ベルリンからウィーン、コペンハーゲン、ストックホルムなどを訪問。1890/11/20 ベルリンを離れ、アムステルダム、ハーグ、ロッテルダムを訪問。1890/11/23 ロンドン到着。1890/12/13 ロンドン離脱。1890/12/14 パリに戻る。1890/12/29 パリの一部を訪問。1890/12/30 フランスを離れ、マルセイユで帰路につく。1891年 アレクサンドリアからカイロへ(カイロ→スイス→コロンボ→サイゴン→香港→上海を経由)。1891/1/16 横浜着。なお、本作第5章の冒頭シーン、視察の合間に行ったマルセイユでの柔道披露は正確な記録が現在までに確認されていない。
-
うちの実家の酒 初出第五章
川石酒造之助の兄・川石酒造作が明治43(1910)年に川石本家酒類から独立し、創業した「川石酒類(現・灘菊酒造)」の清酒。
-
ストックホルムオリンピック 初出第五章
明治45(1912)年5月5日~7月22日にスウェーデンの首都ストックホルムで開催された第5回オリンピック。明治42(1909)年、東京高等師範学校の嘉納治五郎校長の元に国際オリンピック委員会から日本のオリンピック初参加を呼び掛けるメッセージが届き、同年5月のベルリンIOC総会で嘉納治五郎はアジア初のIOC委員に推薦された。当時、日本が次の五輪(ストックホルム大会)に参加するためには国内のスポーツを統括する団体の設立が絶対条件となっていたため、嘉納治五郎はその準備に取り掛かり、明治44(1911)年7月に大日本体育協会を設立して会長に就任した。その後、翌年の大会参加に向けて、国内オリンピック予選会を実施し、100m、400m、800m走を制した三島弥彦(東京大学)と25マイル(約40km)のマラソンで優勝した金栗四三(東京高等師範学校)の2名を日本初のオリンピック代表選手に選出。明治45(1912)年5月16日に嘉納治五郎団長と大森兵蔵監督を含む総勢4名の日本代表選手団はシベリア鉄道を利用してストックホルムに到着した。
-
IOC総会 初出第五章
国際オリンピック委員会に所属している各国の委員が集まる総会。
-
第二次世界大戦 初出第五章
昭和14(1939)年9月1日~昭和20(1945)年9月2日の約6年にわたって続いた世界大戦。日本・ドイツ・イタリアを中心とする陣営とアメリカ・イギリス・ソビエト連邦・中国などを中心とする陣営との間で行われた戦争の一般的な呼称。


