柔の散歩道
※見学希望の際は、各施設に見学可否・開放日時等をお問い合わせください。
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筑波大学 東京キャンパス(旧東京文理科大学)
【記念像の除幕式】
資料提供:公益財団法人講道館最初の嘉納治五郎像設置場所。(戦時中に紛失)
かつて、この地には嘉納治五郎が校長を務めた「東京高等師範学校」(官立の中等教員養成機関)や、校長退任後の治五郎も参画した大学昇格運動を経て発足した「東京文理科大学」(東京高等師範学校の専攻科を母体とする官立の旧制大学)があった。
その後、1949年に「東京農業教育専門学校」と「東京体育専門学校」を合わせた4校を包括して新制大学の「東京教育大学」が開学した。
1973年に新構想大学の「筑波大学」に改組し、筑波研究学園都市へ移転した後も同地は筑波大学が所管し、現在は関連施設が置かれている。
<銅像製作の経緯>
治五郎の長年の功労に謝恩の意を表するため、学校の同窓会員らが治五郎の喜寿(※)記念像の製作を朝倉文夫に依頼し、1936年(昭和11年)11月28日に国内で最初の嘉納治五郎像が東京文理科大学本館前(東京高等師範学校旧本館前)に設置された。
除幕式の引綱役は朝倉文夫と治五郎の孫・嘉納行光(数え年5歳)が務めた。
この銅像は第二次世界大戦中に金属類回収令によって供出され、行方不明となった。※数え年77歳。1950(昭和25)年1月1月「年齢のとなえ方に関する法律」施行前の当時の慣習で数え年を年齢とした。
住所 東京都文京区大塚3-29-1 最寄 東京メトロ丸ノ内線 茗荷谷駅 -
占春園
資料提供:公益財団法人講道館 六つの治五郎像設置場所の一つ。(通算2体目)
筑波大学東京キャンパス内にある池泉回遊式庭園。教育の森公園に隣接。
現在は筑波大学附属小学校の自然観察園として理科教育の場になっているが、一般にも開放されている。江戸時代初期に守山藩主・松平家の屋敷に作庭され、往時は江戸三名園(※)と称されたという大名庭園の遺構。
※青山の池田邸、溜池の黒田邸、守山藩松平邸の占春園。
<銅像設置の経緯>
東京高等師範学校を含む後身校の同窓会員から銅像の再建を望む声が上がり、治五郎の没後20年目にあたる1958年(昭和33年)11月14日に同じ石膏型から再建された。
住所 東京都文京区大塚3-29-1 最寄 東京メトロ丸ノ内線 茗荷谷駅 -
講道館
資料提供:公益財団法人講道館 六つの治五郎像設置場所の一つ。(通算3体目)
1958年に水道橋から移転し、現在に至る。移転直後924畳だった道場は、その後、国際柔道センターが建設され、現在は大・小合わせて1272畳まで拡張している。
宿泊施設や柔道資料館も併設されており、世界中から柔道修行者が訪れる講道館柔道の聖地となっている。
白山通りに面した本館玄関前に、朝倉文夫が石膏原型を手掛けた嘉納治五郎の銅像が置かれている。<銅像設置の経緯>
1860年生まれの嘉納治五郎の生誕100年記念行事として、1960年(昭和35年)10月29日に嘉納師範生誕百年式並びに銅像除幕式が挙行された。
広さ 924畳→1272畳 期間 1958年~現在 累計入門者 約220万人 住所 東京都文京区春日1-16-30 最寄 東京メトロ丸ノ内線・南北線 後楽園駅/都営三田線 春日駅 -
筑波大学 筑波キャンパス
資料提供:筑波大学附属図書館 六つの治五郎像設置場所の一つ。(通算4体目)
嘉納治五郎が3期通算23年半も校長を務めた東京高等師範学校(旧高等師範学校)の流れを汲む国立大学。
筑波研究学園都市に本部がある教育の総本山。<銅像設置の経緯>
2010年12月10日に生誕150周年を迎える嘉納治五郎の偉業を称え、その理念を継承するため、銅像の設置を決定。筑波大学基金として寄付を募り、先生の誕生日に大学会館前の広場で除幕式を行った。
※嘉納治五郎の誕生日は旧暦1860年(万延元年)10月28日(新暦12月10日)住所 茨城県つくば市天王台1-1-1 最寄 つくばエクスプレス つくば駅 -
灘中学校・高等学校
資料提供:公益財団法人講道館 六つの治五郎像設置場所の一つ。(通算5体目)
1927年(昭和2年)10月24日創立の男子校。嘉納治五郎が顧問として参画し、灘五郷で酒造業を営む本嘉納家(菊正宗)当主・嘉納治郎右衛門、白嘉納家(白鶴)当主・嘉納治兵衛、山邑家(櫻正宗)当主・山邑太左衛門の三者によって設立された。柔道の根本原理「精力善用」「自他共栄」が校是に掲げられ、校歌の歌詞にも使われている。
<銅像設置の経緯>
校舎の大規模な建替計画に含まれていた、3代目柔道場の完成に合わせて嘉納治五郎先生の立像を設置したいという柔道部OB会「柔友会」からの要望を学校が承認し、設置を決定。
2012年(平成24年)6月2日、道場開きとともに銅像の除幕式を行った。
奇しくも講道館創立から130年、嘉納治五郎が選手団長を務めたストックホルム五輪から100年という節目の年であったが、偶然の一致であり、これらは設置目的に含まれていない。
住所 兵庫県神戸市東灘区魚崎北町8-5-1 最寄 JR東海道線 住吉駅/阪神本線 魚崎駅 -
台東区立朝倉彫塑館
資料提供:台東区立朝倉彫塑館 六つの治五郎像設置場所の一つ。(通算6体目)
彫塑家・朝倉文夫の作品を収蔵・展示している美術館。
朝倉文夫は東京美術学校(現・東京藝術大学)を卒業した1907年(明治40年)、24歳の時にこの地にアトリエ兼住居を構え、多くの作品を生み出した。現在の建物は1935年(昭和10年)に建てられ、「朝倉彫塑塾」と命名した教場で広く門戸を開放して弟子を育成した。1986年(昭和61年)に台東区に移管され、朝倉彫塑館となった。現在は公益財団法人台東区芸術文化財団が運営・管理している。
<銅像設置の経緯>
2020年(令和2年)開催(予定)の東京五輪を目前に控え、柔道に関心が集まる中、発祥地の証しを残し、国内外に発信するため、台東区が永昌寺から約200mの台東区役所内に銅像の設置を決定。
2019年(令和元年)2月10日~8月9日に台東区役所1階の台東アートギャラリーで展示され、現在は朝倉彫塑館に収蔵されている。(銅像の石膏原型も台東区が所有している)
※嘉納治五郎像は常設展示されていません。催事で定期的に公開予定です。住所 台東区谷中7丁目18番10号 最寄 JR京浜東北線・山手線・常磐線/京成線/日暮里・舎人ライナー 日暮里駅 -
天神山緑地(嘉納治五郎別荘跡地)
資料提供:公益財団法人講道館 六つの治五郎像設置場所の一つ。(通算7体目)
嘉納治五郎の別荘跡地に作られた緑地公園 (我孫子市管理)。
アジア初のIOC委員として多忙な毎日を送り、翌年に五輪初参加を控えていた1911年(明治44年)、手賀沼を眼下に望む高台に別荘を構え、都会の喧騒から離れた思索の地として心穏やかに過ごしていた。
<銅像設置の経緯>
2020年に創立40周年を迎える「我孫子の文化を守る会」の記念イベントを検討していたところ、2020年が我孫子市制50年の節目の年でもあり、我孫子市と深い関係がある嘉納治五郎の生誕160年でもあったため、我孫子市の新たな観光の目玉となる銅像を市が管理する天神山緑地(嘉納治五郎別荘跡地)に設置し、銅像を通じて嘉納治五郎と我孫子市のつながりを後世に残そうと計画。
「我孫子の文化を守る会」を中心に、会の呼びかけに応じた市民有志らの募金により設置が実現し、2020年4月15日、高台の別荘跡から南側の手賀沼を眺めるように建てられた。
銅像脇の東屋には、「力必達」「以人為鏡」という嘉納師範の書額(レプリカ)が掲げられている。
住所 千葉県我孫子市緑1-9-11 最寄 JR常磐線 我孫子駅
<我孫子と嘉納治五郎の縁>
嘉納治五郎は1911年(明治44年)に我孫子市緑1丁目に別荘を構え、 1914年(大正3年)に別荘の西側隣地(三樹荘と命名)に甥で民芸運動提唱者・宗教哲学者の柳宗悦・兼子夫妻を呼んで移住させた。
その後、柳宗悦は友人の志賀直哉、武者小路実篤に移住を勧め、我孫子は白樺派をはじめとする文人、芸術家たちが集う拠点となった。
1919年(大正8年)には我孫子市白山1丁目~3丁目に嘉納後楽農園(※)を設け、農作物や果物を出荷して地域経済に大きく貢献した。 また、嘉納治五郎を慕う学者や経済人、教育者なども別荘を設け、「別荘地 我孫子」の名が世に知られるようになった。
市民との交流も盛んに行い、ジャーナリストの杉村楚人冠や西洋史学者の村川堅固(五高時代の教え子)らと1925年(大正15年)に「手賀沼保勝会」を結成して、国による手賀沼干拓計画に反対する環境保全運動を行ったり、1929年(昭和4年)に「我孫子ゴルフ倶楽部」開場支援に携わるなど、手賀沼を活かした町おこしに関わり、風光明媚な郊外の住宅地、観光地としての我孫子の発展に尽力した。
※元々は私立学校の設立を目的として取得した土地だったが、IOC委員としての仕事に加え、1922年には勅撰の貴族院議員に就任し、多忙を極めて計画を断念し、農園となった。
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嘉納治五郎の生誕地
資料提供:公益財団法人講道館 嘉納治五郎(幼名・伸之助)は、1860年(万延元年)10月28日に 摂津国菟原郡御影村浜東<せっつのくにうばらぐんみかげむらはまひがし>(現在の兵庫県神戸市東灘区御影本町1丁目)で父・次郎作、母・定子の三男(第五子)として誕生した。
治五郎の家系は曾祖父・治作郎の代に本嘉納家から派生した浜東嘉納家と言い、生家は祖父・治作が建てたもので、現在の御影本町市民公園を含む約800坪の広大なものだった。
この生家は御影の浜に面し、紀淡海峡を航行する帆船の帆影が青畳の上に映ったことから「千帆一目」の邸宅、「千帆閣」と言われていた。 御影本町市民公園内には、生誕地を示す「嘉納治五郎生誕地の跡」の史跡看板が設置されている。
2018年(平成30年)12月には生誕地近くの菊正宗酒造本社横に「嘉納治五郎翁生誕地」の碑が建立された。
<嘉納治五郎生誕地の跡>
住所 兵庫県神戸市東灘区御影本町1-3 御影本町市民公園内 最寄 阪神本線 住吉駅
<嘉納治五郎翁生誕地の石碑>
住所 兵庫県神戸市東灘区御影本町1-7-15 菊正宗酒造株式会社 本社横 最寄 阪神本線 住吉駅 -
氷川丸
資料提供:公益財団法人講道館 日本郵船が1930年(昭和5年)にシアトル航路用に建造した当時最新鋭の貨客船。
1941年(昭和16年)に海軍に徴用され、貨客船から特設病院船に改装。戦地の海軍病院と日本を結び、戦傷病者を看護・収容して日本に帰国させる役割を担った。終戦までの約3年半の間に3回も触雷したが沈没を免れ、計24回の航海で、3万人に上る戦傷病者を輸送した。
戦後は再び貨客船に戻り、1953年(昭和28年)にシアトル航路に復帰。船齢30年に達し、第一線を退くまでに、太平洋横断254回、船客数は2万5千余名と活躍した。
1960年(昭和35年)に引退した後、1961年(昭和36年)より横浜の山下公園前に係留保存され、2008年(平成20年)に「日本郵船氷川丸」としてリニューアルオープンした。
戦前の日本で建造された、現存する唯一の貨客船であり、造船技術や客船の内装を伝える、貴重な産業遺産として高く評価され、2016年(平成28年)に重要文化財に指定された。
<嘉納治五郎の最期>
1936年(昭和11年)7月、ベルリンIOC総会で東京五輪開催が決定した。しかし、翌1937年(昭和12年)7月に日中戦争が勃発。緊張状態にある日本に対して各国から日中関係の問い合わせや開催反対の意見が寄せられた。
嘉納治五郎は1938年(昭和13年)3月にカイロIOC総会で日本での五輪開催に問題がないことを改めて説明し、開催中止を求める反対派を押し切って、1940年(昭和15年)東京開催決定の再確認(最終確認)を取り付けた。その後、前年に亡くなったクーベルタンの心臓をオリンピアに移す儀式に参列し、東京開催を支持してくれたIOC委員達への返礼と更なる協力要請のため、欧米を歴訪した。
そして、アメリカのIOC委員を表敬訪問した後、帰国のため、バンクーバーから横浜へ向かう氷川丸に乗船。 帰国途中の船上で肺炎を発症し、1938年5月4日(横浜到着の2日前)に急逝した。享年77歳(数え年79歳)
この時、氷川丸に一等船客として同乗し、嘉納治五郎が亡くなるまでの数日間をともに過ごした外交官の平沢和重は、後にNHK解説委員に転じ、1959年(昭和34年)5月のミュンヘンIOC総会で東京五輪開催の最終プレゼン(開催立候補趣意説明)に臨む予定だった外交官・北原秀雄(骨折により渡欧断念)の代役を務めた。
<氷川丸で嘉納治五郎に関わったその他日本人>
鉙内晴磨(船長)、有岡由己(機関長)、松本千代雄(事務長)、上野迪博(船医)、本宮正文(部屋付きの給仕)住所 神奈川県横浜市中区山下町 山下公園地先 最寄 みなとみらい線 元町・中華街駅
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東京都立八柱霊園
資料提供:公益財団法人講道館 嘉納師範永眠の地。オリンピックや世界選手権の前には日本代表選手団がお参りをする等、柔道家にはよく知られている。
住所 千葉県松戸市田中新田生松48-2【5区1種5側13番】 最寄 JR武蔵野線 新八柱駅から1.7km
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神戸市立御影公会堂
資料提供:公益財団法人講道館 1933年(昭和8年)に嘉納師範の生家近くの旧御影町に白鶴酒造より寄付を受け建設。結婚式場や幼稚園等として、また阪神淡路大震災時は避難所としての役割も果たした。
2017年(平成29年)に耐震工事が完了し、地下「嘉納治五郎記念コーナー」が開設され、嘉納師範の直筆の書や資料等の他、柔道着姿の銅像が展示されている。
住所 兵庫県神戸市東灘区御影石町4-4-1 最寄 阪神本線 石屋川駅
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日本オリンピックミュージアム
資料提供:日本オリンピック委員会 2019年に日本オリンピック委員会によってJAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE に設置。
オリンピズムの普及を目的とし、日本におけるオリンピックの父である嘉納師範に関する資料等、オリンピックに関する資料の展示をしている。
屋外のモニュメントエリアには、スーツ姿の銅像が展示されている。また、同エリア内にクーベルタンの銅像も展示されている。
住所 東京都新宿区霞ヶ丘4-2 最寄 東京メトロ銀座線 外苑前駅/都営大江戸線 国立競技場駅


